何故か、この碑のある砺波市宮村の景元教寺の前を通ることが多い。
初めは「待」を「侍」と読み違て、なにか武士の碑かと思っていた。
「たいくんの碑」と読み、いつまでも君を待つ…との解釈。
終戦間際にソ連との国境近くの満州の報国農場に農兵隊として渡った、まだうら若い14、5歳の若者たちがソ連の参戦により逃げまどい、23人が餓えや病気で現地で亡くなっている。
昨年、7月に偶然にもこの碑を修復作業している老人たちに出遭っている。
暑いさなか、一生懸命にセメントを練っておられた。
あとでわかったのだが、農兵隊の生き残りの人たちで石碑の損傷が心配で自分たちの力で修復しているとのことだった。
そうと判っておれば、もっと突っ込んだお話をできたものなのだが、まったくそんな素振りなぞも見せず、もくもくと作業をしておられた。
お歳は90歳を超えているようだ。
私が生まれるほんの5年前ほどの出来事。
すっかり平和な世の中になって、今じゃこの「待君の碑」のことなど見向きもしない。
私もまったく知らなかった。
こんな悲しい過去の歴史があったことを、いつまでも誰かが言い伝えておかねばならないと思うのだった。